Wednesday 18 June 2014

憲法9条の議論について思うこと

自動販売機

星新一が読者に短編集を公募したショートショートの広場という本があって、私の記憶が正しければそのなかに自動販売機というようなタイトルの短編があったはずです。
ある日神様(それかそのような絶対的な存在)がある街に幸福がもらえるという自販機をプレゼントする。ところがお金を払っても待てど暮らせど何も起きないので怒った住民達がこれを壊してしまう。とたんに犯罪や戦争に巻き込まれその街は崩壊していまうのである。住民達は気付く、自動販売機は防ぐという形で幸せを提供していたのである。

着こなせないトップモード

9条もこれと似たようなもので、持っていることの恩恵は気づきにくいけれども、やられてもやり返さないという態度を周辺諸国に提示することがこれまで様々な形で私達の平和を保障してきてくれたのではないでしょうか?9条が改正されたら、それを理由にして周辺諸国によるそれまでは許されなかったような怪しい動きも許されてしまいそうです。


中国の揺さぶり

私は中国政府や日本政府はそれを暗に知っていて、特に中国は分かった上で不穏な動きをして私達が過剰な反応をして、それを理由に次の手を打って来るような気がしています。現自民党政府もパラダイス鎖国が揺さぶられて国民が周辺国との境界問題について敏感に反応しているのをよく観察して今が最初の最後の改正のチャンスと見ているようです。過去の反省の教育って重要なもので、日本は以前欧米の帝国主義化や共産圏の拡大に反応して軍国主義に突入しました。こちらが武器を手に取れば必ずだれかがそれを逆手に取るでしょう。

国としてのプライドを測るナショナリズムは国力が下がれば必ず台頭してきます。注意しましょう。

Monday 10 March 2014

迷惑

大分先日のことになるけれど" ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件…そして"という映画を見てきました。皆さん記憶していますでしょうか。今から10年ほど前、邦人3人が人質となった事件です。身代わりとして当時PKO派遣されていた自衛隊の撤退を要求されたため、3人は無事開放されたものの帰国後、主に自衛隊の活動を阻害したとして”自己責任論”のもとメディアや世論から大変なバッシングや暴力を受けたという事件です。この映画は高遠菜穂子さんや今井紀明さんのその後や、彼らが事件をどう心の中で解釈(解決)したのかとういうことについてのドキュメンタリー映画です。 同様の趣旨の映画にはバッシングというのがあって、当時カンヌで上映した映像がテレビで流れてお客さんが”日本って本当にこういう感じなの?信じられないわ”といっていたのをよく記憶しています。

高遠菜穂子さんはPTSDになったり、家族殺害の脅迫を受けたりしながらもボランティア活動を復帰します。当時拉致されたファルージャという土地でアメリカ軍が落としていった劣化ウラン弾の影響で(放射能被爆した国って日本だけじゃなかったんですね)次から次へと今も生まれる奇形の子への救済を行っています。今井紀明も街を歩いていると見ず知らずの他人が突然殴りかかってくるなどの暴力を受けたり(自分は相手を知らないのに相手は自分を知っている恐怖と本人は表現していた)同様に4年に及ぶ人格否定や脅迫の1万通以上に登る手紙をうけました。5年に及ぶ対人恐怖を克服した後、不登校などのドロップアウトした生徒を補助するNPO法人を立ち上げ運営しています。


自己責任という正義

さてここでいう自己責任論の絶対公約数とは”自分で危ないと分かっている国に入った分けだから(当時の)自分達の危機的な状況に責任を持つべきで、他人(である私達)や国に迷惑をかけるべきでない。”ということです。つまり自衛隊の撤退という天秤の片方に対して彼らの死を正当化してしまうかもしれない理論です。実際、映画中に今井紀明さんが受けた手紙には”あなた達のようなマヌケお三方は死んでしまっていたほうが世の中のために良かったのではないでしょうか?”といった手紙を大量に受け取るわけです。想像するに恐ろしい。そんな風に継続的に自分の存在を消してしまいたい手紙を受けたら日本中が自分の死を望んでると誤解してしまいそうです。とにかくメディアも政治も自己責任と言い出したから当時の誹謗中傷した人々は安心して正義を背中にしょってなたを振り下ろしたのです。

それに対してテロリストの釈放声明はこうです。
われわれは、日本政府が拘束された3人の人質について、自国民の生命を軽んじる評価を行ったことを強い痛みを持って聞いた。これにより、われわれは、日本政府に代わって日本国民の生命を守る完全なる正当性を与えられた。..中略..われわれは、この政治家は、自国民とその意思を尊重せず、戦争犯罪者ブッシュ(米大統領)に仕えていると確信している。
..中略.. 
われわれは、イラクの抵抗は、いかなる宗教、人種、党派に属していようとも、あるいは責任者のレベルであろうと、平和な文民の外国人を狙ったものではないということを全世界に証明するため、また、今晩、マスメディアを通じて呼び掛けを行ったイラク・イスラム聖職者協会の原則、純粋性、勇気を信頼して、また、われわれの独自の情報源を通じ、当該日本人(人質3人)は、イラクの人々を助けており、占領国への従属に汚染されていないことを確認したため、彼らの家族の痛みと、この問題への日本の人々の立場にかんがみ、われわれは以下の通り決定した。 
 (1)イラク・イスラム聖職者協会の要請に直ちに応え、3人の日本人を、神が望むならば、今後、24時間以内に解放する。 (2)いまだに米国の暴虐に苦しんでいる友人たる日本の人々にイラクにいる自衛隊を撤退するよう日本政府に圧力をかけるよう求める。なぜなら自衛隊の存在は不法なものであり、米国の占領に貢献するものであるからである。 
参照元


さてこの自己責任という理論は何も人質問題に限ったことなんでしょうか?僕は約3年の海外生活の後日本に帰ってからというものとにかく生き辛いです。みんないつも他人に怒っているし相手にも怒られるかもしれないから、そのことでコミュニケーションを敬遠しがちで他人と遊びたがらない。当たり前だと思います。僕が帰ってからずっと周りの人に主張していることだけど、他人に迷惑をかけないのは日本人が世界に誇れる最高の美徳だけど、迷惑をかけられないことを期待してかなわなかった時に躍起になって怒るのは世界に恥ずべき欠点であると思います。


習慣や人々の振る舞いの違い

僕はある国の習慣や人の振る舞いを観察するのがすごい好きです。なぜなら、習慣とは多くの人がこういうときはこうしたいと考えた集合知的総意だからであるからです。たとえば以下に日本の独特の振る舞いをあげてみましょう。たとえば日本のコンビニの店員は”いらっしゃいませ” ”ビニールはいらっしゃいますか?”などの定形文を言うけれど、ロンドン(ロンドンは外国人だらけでイギリス白人は3割しかいない)のコンビにでは”調子どう?” ”うそ、僕も昨日マーケット行ったよ。あそこのお店でうまい○○が食べれるよ”みたいな会話になる。それって人が多くて忙しいかどうかの違いだけじゃないかと思うかもしれないですが、ロンドンは忙しい街です。大体5人後ろに並んでいようが構わず世間話をする。自分がもし会話に捕まって早く買い物を済ませて行かなければ行けないときは”早く行かなきゃならないの。また明日ね”とそのまま事実を伝えればいいだけのである。(シンプル!)もしそのせいで3分会社に遅刻したところで誰も怒ったり、だから君はダメなんだ見たいにいう人がいないんです。大体、ちょっとでも迷惑をかけたとたんに罪人みたいに扱う人がいるけど、いつ何時も360度人に全く迷惑をかけずに生きることなんて一体できるんでしょうか?


日本人は親切
それから、ロンドンでは電車やバスではみな大声で話します。携帯もどの席でも特に禁止されていないので気にせず話します。一方、日本では誰かがじっとあなたを見つめたらどうやらそれは”黙れ!”という意味らしいです(と外国人の友達が気づいたとよく聞きます)。臭いも日本ほど誰も気にしていないのでみんな臭います。電車での他人との身体的接触はそれほど誰も気にしていないです。ポールを握る手と手が触れていたってあまり気にしていないです。一方で必ずどの電車車両もバス車両も乳母車の優先場所があるので例の日本での”満員電車でベビーカーをたためよ”問題も存在しないです。階段でベビーカーやスーツケースをもって誰かが困っているものなら誰かが必ずやってきて上まで運んでくれる。日本人は親切だという旅行者の評判を片手に実は日本人は日本人に全く親切ではないんです。(あと、東南アジア出身の友達は日本人は僕達に冷たいとよく言っていました。)

僕にとって帰国後すごいショックだったできごとがありました。3列横隊で電車待ちをするサインがプラットフォームにあったとき、僕の隣に杖をついた80くらいのおじいちゃんがよく事情を分からず3列のうち2列分にまたがって立っていたときのこと。すごく前に行きたそうな後ろのサラリーマンが”邪魔だよ”って言ったら他の1人が同じく邪魔だと言い出して、挙句は後ろに並んでいた女性が杖なしでは歩けないようなお爺ちゃんを無理やり手でどかしたのである。2人分を占領していたのが罪人みたいである。ルールという正義をかざしてまるで良いことをしたみたいな感じ、僕にはそういう感覚が良く分からない。

先日記事にしたダンス禁止法とクラブ狩りもそうです。ダンスという楽しみをするなら絶対に騒音やごみで回りに迷惑をかけていけないゼロトレランシーです。僕はそうやって人の楽しみや信念を快楽や享楽的と決めつけて奪ってしまう選択や挑戦の無い環境がどうしても許せないです。もうそれは日本人をやめてしまいたいくらい許せないです。


迷惑という怒りとは何者なのか?

僕はよく人から怒らないと言われます。でもこの記事の示すところのとおり僕はどうも怒りの矛先というかきっかけが他の人とはちょっと違うようです。迷惑ということになぜそんなに怒れるのか?怒る理由が見当たらないのです。

迷惑に対するこうした怒りの正体とはなんなんでしょうか?先のコンビニやおじいちゃんの例で行ったらだれかによって5分遅刻したからって人生の何が変わるんでしょう?あなたは迷惑の何にそんなに怒っているのか再考してみる価値があるかもしれません。もしかしたらどうしても遅刻できない日本の職場環境で起きた過去の記憶の負のイメージ(たとえば遅刻を怒られているイメージ)などの刷り込みがあるのかもしれません。自分が働くのが好きで自分の働く時間がある人の迷惑によって5分削られたのなら単に5分残業していけばいいわけですから。自分がどういうロジックで怒っているか再考する価値があります。ちなみに自分の海外での就職経験ではあまりひどくない限り遅刻について怒られた様な経験はありません。というかありません。ちなみに”○○さんはそんなに遅刻してだらしない人間だね”といった人格否定的な怒られ方をしている人も見たことがありません。雪が降っても、台風が来ても遅刻できない、電車が止まって3時間かかっても出社しないといけない日本特有のいらいらが、例えば階段ですれ違った人とぶつかっても謝りもしない(急いでる私を邪魔するんじゃない。私の重要な時間を君みたいな通りがかりのバイト君が邪魔するんじゃない。)という他人に許容力のない文化を作ってもいっこうに不思議じゃないわけです。

こういった種類の怒りは伝染します。ちょうど自分の車両に駆け込んだ人を見てわざと大きな声で友達に駆け込みは良くないと言っている人がある時はどうしても遅刻してはいけない理由で駆け込み乗車する様に、我々日本人はあるとき自分を束縛するであろう影のルールをそれはいっぱいつくっているのです(駆け込み乗車を肯定するわけではない)。乗車率100%の一車両143人、11車両の1573人の1人1人が半年に1回駆け込んだとしてその間17回は駆け込み乗車に遭遇する分けです。人に迷惑をかけてはいけないという刷り込みは規律を乱す者を罪人としてしまうことをよしとしてしまいます。まあそれがルールであり、秩序や(例えば世界が驚いた地震後にまったく暴動や破壊が起きなかったような)治安を守る力といった長い間の平和の方程式であったわけです。ただ、今日において人がコミュニケーション敬遠だったり、皆が言う何となくぼんやりとした閉塞感に繋がっているのは全く不思議でないことです。人に迷惑をかけないチャレンジはない。その気付きが無い人は他人を縛り、自分も縛る深い連鎖の一員になっているわけです。僕はそういう人とはどうにも友達になれないわけだし、不幸をまき散らさないで一人でやってほしいなと思うし、できれば口もききたくないと思っています。

僕の友達と名乗る人には絶対に見て欲しい。価値がひっくり返ること間違いないです。
http://www.uplink.co.jp/movie/2013/21421

Sunday 1 December 2013

ダンス規正法に関する個人的見解 - 感じるな語れ

Save the Club Noonの試写会に行ってきました。
http://www.uplink.co.jp/movie/2013/16966


映画の中でも登場しますが、ダンス禁止法といわれる風営法第一章第2条ですが、その制定は1948年、戦後日本で男女が踊りながら売春の交渉をしたことからそれを取り締まるために作られた法律といわれています。それから既に60年たった今、それまでブランクのあった条項を当時とはダンスを取り巻く状況や文化もかなり異なるのに突然に使って取締りを行っているのはかなり恣意的ではないでしょうか。また、関西をきっかけに関東、日本全国で行われるのは警察庁がトップダウン的に各地の市警県警に行わせているのではないかと想像するところです。


私たちは何に怒っているのか?

私たち音楽やそれを取り巻く文化を純粋に好きな人たちは怒っている。では、私たちは誰のどんな行為に対して怒っているのでしょうか?この取締りを行っている主体は警察庁なのでしょうか?地方警察局が自主的行っているのでしょうか?警察庁長官の支持の元行われているのでしょうか?それとも、ある特定の議員団体が警察庁に圧力をかけて行わせているのでしょうか?では警察は何を取り締まりたいのでしょうか?ドラッグなのか、アルコールなのか、やくざマネーなのか、ダンスを取り巻く文化なのか?私たちが戦うべき敵は誰なのでしょうか?私たちはまずそれを知るべきです。


誰の責任なのか?


現在の日本では残念ながら誰の指示と責任の元こういった取り締まりを行うのかというのが不明瞭なまま行うことができてしまいます。つまり、行う方はあまりリスクを取らずに実行できてしまうわけです。恐らくこのままいけば風営法は改正されると思います。ただ、既にいくつものクラブが会計情報を押収されたり、罰金刑を受けたり、営業停止処分を受けたりして経営難に陥りオーナーは廃業している分けですから、そういった責任を我々はこれを行った主体に追及すべきです。

※.ちなみにThe Club Noonが摘発されたときの警察庁長官は片桐裕という人物で2013年12月現在は米田壮


クラブにも普通の大人がいる

先にもあげたとおり、まだ楽観視はできませんが恐らくこのままいけば諸所の活動や議員連盟の働きかけがあって少なくともダンス禁止法は現在の形からは法改正されて、クラブの営業そのものはできるようになるでしょう。取り締まる側はクラブについて犯罪の巣窟的な偏見があるような発言が取調べ等であるようですが、実際にクラブに来る人は意外と良識があって普通の会社員生活をしている人が多いです。その点警察は見誤られたんではないかなと思います。


UKのダンス規正法

UKではレイブカルチャーの広がりからCriminal Justice and Public Order Act 1994によって反復するビート(つまりハウス・テクノミュージック)を複数人で聴いた場合違法となり取締りの対象となりました。しかしながら、それがスクワットパーティ(廃墟を占拠しての屋内パーティ)の普及を加速させることになったと理解しています。映画では確かThe Blue HerbのIll Bostinnoが”UKでもUSでもクラブは3AMくらいまでしか営業できなくて、ダンス規制以前の日本では世界にここだけにしかない幸せを謳歌していた。”と発言していましたが、UKに関しては間違いです。パブの営業時間は確かに23時までで以前はクラブでの飲酒は午前2時まででしたがEnglandでは2005年に法改正されており、ライセンスがあれば24時間営業してもお酒をサーブしても問題ないはずです。私も2011年までUKに住んでいましたがパブでは23時に鈴がなってそそくさと退出しなければならなかったものの、クラブから午前3時に追い出されたりお酒をサーブしてもらえなかったことは無かったです。ですから、他国との標準にあわせる意味で営業時間を風営法改正の妥協点とする必要はないと思います。


法律とは皆が幸せになるための妥協点

映画の中でIll Bostinnoが”法律は僕たちに悪いことしかない”とアナーキーなことを言っていましたが、法律とは異なった意見や社会的な立場の違う人がお互いにwin winで幸せになれる妥協点を探したお互いのためのルールであるべきであり線引きです。だからアウトロー対政府みたいにカウンターカルチャーの時代みたいに勧善懲悪くらいに単純化してしまうのは僕はあまり好きじゃないし、現代の社会的背景にそぐわないのではないかなと思います。


感じるな語れ

sugiurumnが”今本音を言うとtwitterとかで袋叩きに合うような風潮があって大変でしょ?”と言っていました。常々(ここ以外で)私も言っているように日本社会は(実はいろいろな系統があるものの)ほとんど単一の民族で構成されていて、人と細かく話さなくても”空気を読めば分かる”ほどにアイデンティティも統一されている。ところが、実はそういう風に見えて現在日本は社会的立場、職業、興味の範囲、趣味、人生体験などによって全然異なる人たちの集まりにいつの間にかなってしまったのです。実はそのことが背景にもあって、誰かがtwitterで知り合いにダンス規正法の話したら”クラブってヤンキーの巣窟だろ。つぶすのが当たり前じゃん。”て言われたみたいなことがあったけど、そこまで不理解とは言わないものの”あんなに大音量でズンドコ言ってる音楽を流して何が楽しいの?無くなってもいいんじゃない。”くらいの温度感の無関心は多数派なんじゃないでしょうか。僕たちクラブミュージック愛好家、クラバーはやはり日本においてはマイノリティであることは(私の意見ではなくて)事実です。それはもう個人ではどうしようもならないくらい大きな”文化”という枠組みであり、価値が単一的で異種なるものに偏見が多い日本文化においてはなかなか5年とか10年のスパンで変えていくことは難しいです。だからといって、クラバー達には現実と違うところで楽しんでいるモラトリアムに浸っていて欲しくないし、社会に出て発言して欲しいと思います。確かTheo Parrishだったと思うんだけど、スピリチュアルな音楽を日本のハウスミュージックファンが好きなことについて、”日本人は外国のことを僕たちよりもなんでもよく知ってて細かく話したがるけど、語るんじゃなくてもっと感じるべきだ。”となんかのインタビューで言っていました。僕はこの言葉が大好きですが、今この状況に置いては逆のことを言いたいです。”感じるな語れ” - クラブに閉じこもっていないでペンを持って同じ論理的枠組みの中で社会の枠組みを変えて欲しいです。ご協力します。

Thursday 22 August 2013

ねばならない人達

例えばこんな経験ありませんか?

 職場である人に"◯◯さんに迷惑だからこういう風にしなければだめだよ"って言われて、◯◯さんの迷惑に比べて、自分が"こういう風にする"労力的な迷惑の方が圧倒的に多いなんていうようなこと。もしくは"その案件はこうしないとダメだ"ってよく言ってるけど、一方でその案件の質を下げてでももっと楽な形にしてよって担当者に凄んでたりする人見かけたことありませんか?みんなちょー細かいけどこの人たちは本心から言っているのかなと思うことがよくあります。海外にそういうひとがあまりいなかったけど、日本に帰ってきたらいっぱいいてずっと気になり続けています。僕は一人で勝手にそういう人達をねばならない人達と呼んでいます。そう言った人たちが他人にどう思われるかを極端に気にして行動しているからです。日本人の行動の規範が基本的に他人にあるのでそういう人が多いのは自然なことかもしれません。

 それでよく思うのは、どうやら世の中には自分の理念で物事を良くして行こうと思っているクラフトマンシップ的な人と、他人から見てこうあるべきだというのを実現しようとしているねばならない人という人たちがいるらしいということです。双方がうまく作用すれば世の中良くなって行きそうだけど、実はねばならない人達は周りの人たちにストレスを撒き散らしてると思います。


ねばならない人

・物事を良くすべきというモチベーションではなく、他人から見た私はこうあるべきということを実現化させようとしている ・本心じゃないからすべき行動が異様にストレスになる ・そのストレスを大人として我慢すべきことと捉えており、それをできない人を抜け駆けと感じている


クラフトマンシップ

・物事をよくして行きたい駆動(性善説的な) ・本心で行動しているからあまり苦にならない ・他人が抜け駆けやサボっていると感じる主だった理由に欠けるから怒る理由も無い ・身の回りのものをよくして行こうというクラフトマンシップは尊敬を集める

ねばならないは感染します。理想的な像にそぐわないお互いの欠点を指摘し合う環境を作りがちです。僕は自分が同意できないんだったら行動に移さない、ねばならないミームをまき散らさない事で結構多くのそういった硬直した環境をほどくことができるのではないかと思います。大事なことは他人や自分に対して優しいことと物事を良くしていくことがトレイドオフではないことです。あなたは頭の中の誰かに常に怒られていませんか?

Thursday 23 May 2013

日本人の黒人感 - ンバンバとちょっと変わった人種感の話

 ちょっと今日はいきなり第二回目の記事としては繊細な人種の話題について書きます。今日は同僚とうどん屋に言って長々と日本人の人種感が変わってるという話をしてきました。その中で出てきたのが日本人の黒人感の話。私が一方的に話したんですけどね。

 まあ島国で都市部の人口に対して外国人がとても少ないから人種感が変わっているのは無理もないです。黒人に関してもアフリカの国の時事話題をニュースで放映することは毎日放映するヨーロッパのテレビ局に比べると皆無に近いといった感じでしょうか。私たちが一般的に”黒人”といって何を思い浮かべるでしょうか?それはおそらくアフリカンではないでしょうか。でも実際はいろんな種類のブラックがいるわけです。アフリカンアフリカン、アフリカンアメリカン、パプアニューギニアン [場所]、カリビアン、肌の色だけで言うならアフロアラブ [エジプトなど]、中東、南インド人などもブラックと呼ばれることがあります。みんなアイデンティティを共有していません。

 UKに十数年住む僕の友人が日本人を揶揄して(シニカルで)面白いことを言ってたのが日本人の人種感の雑な把握の感じをよく表していています。
”日本に帰ると日本人のR&B好きの女がさあ、よくマイケルとか名乗ってる男連れて自慢げに歩いてるけど、その男アメリカンのふりしてるけど本名ンバンバとかだから。アフリカンアフリカンだから。黒ければブルーズのにおいすると思ってるけど、しないから。”
※.人種差別的な意図はないです。むしろ人のバックグラウンドをよく理解しないで一般化するのが失礼だなという意図で書いています。

 しかも、実はアフリカン同士の人種主義というものがあってアフリカンとアラビックが対立している側面があったりとか、カリビアン、特にジャマイカンは見た目でアフリカンアフリカンと全く違うので、ジャマイカンのお店にアフリカンアフリカンが来ても対応が悪かったり、追い出されたりすることがあるらしいというのをジャマイカンの友達何人かに聞いたことがあります。

 カリビアンはUK時代に陽気で付き合いやすかったのでよく友達になりました。よくしゃべる、適当、関西ノリというのが僕のカリビアンの性格に対するステレオタイプです。


先にあげたとおりアフリカンアフリカンはブルーズじゃないんです。ブルーズは合衆国の風土が生んだものです。アフリカも大きな大陸ですから一般化するのは難しいですが、アフロビートという音楽が有名なので代表するものとしてブルーズとの違いを聴いてみてください。R&Bとはまた別の魅力があるわけです。




Saturday 23 February 2013

はじめまして

 はじめまして。 このブログはUK在住経験をした筆者が、もしかしたらこれから海外生活を考えている人や海外で働いてみたい誰かの役に立つかもしれないという気持ちと、記憶が薄れてしまう前に記録として残しておきたいという思いから在住経験を振り返って書くものです。

 前提として、私はUK在住3年弱でしかないのと書くことのほとんどは人の観察を通して”こうであろう”と想像するものであって(たとえ断定的に書いていても)、また文化的なものを扱っているというその質から個人差があったり、誤りを含むことがあるということです。真摯な議論には励みますが、答えがないものについて長く議論することはあまりないかもしれません。

 さて、タイトルの”不便を楽しもう”ですがその3年弱で得た経験のうち何か象徴的な単語を模索したところ思いついたものです。”欧米”と一般化するのは恐ろしいもので、欧と米は全く違います。※1 目立って印象に残ったことはイギリス人はアメリカ型消費駆動資本主義を嫌う傾向があることです。数百年前の建物にまだ現役で人が住んでいたり、ストリートにスーパーマーケットができたから暴動が起きたり例を挙げたらきりがありません。それで”不便を楽しむ”という態度を通して、現代日本人がいかにアメリカに近いのか、不便や自分の思い通りに行かない事・他人に対していかに許容力や寛容性を失ってしまったかを浮き彫りにしていきたいと思っています。今のところこのタイトルがしっくりくるのではと気に入っている次第です。

※1. さらに欧も一般化できません。ついでにいうと、英国では狭義ではBritishはEuropeanではありません。”大陸の人たち”と精神的な明確な区別があるようです。